2026/03/18 23:00
服を選ぶことは、
形を選ぶことだけではなく、
自分がどのように世界に触れていたいかを選ぶことでもあるのではないかと思います。
何か頭の中で考えるのではなく
身体で感じたく福岡から東京へ向いました

oira
006/I(私) feel(感じる)
デザイナーの髙橋さんはまず
「私たちはいかように感じとる、のかを再考する」と描いています。
目で見て、耳で聞いて、手で触れて、
そうやってわたしたちは
世界を認識しているつもりでいるけど
ほんとうはもっと曖昧で、もっと広く、
肌の上や、気配の中で
名前をつける前のなにかを感じ取っているのかもしれません。


デザイナー髙橋さんが幼少期を過ごした
兵庫県の神河町の風景には、
その、名前をつける前のなにか
が静かに残っているように思いました。
山の中を裸足で走ること
夜の野原で、車のライトに反射して光る鹿の瞳を見ること
川に潜ること
死にそうになるような場面のそばにいながら、
不思議と恐れを持たなかったこと。
それは、ただ懐かしい田舎の記憶というよりも
まだ身体が世界と直接つながっていた頃の記録のように感じます。
都会で暮らし、
情報や速度や言葉に囲まれながら生きる今。
わたしたちの感覚は少しずつ整えられ守られ、
便利になる代わりに
身体感覚が鈍くなっている部分がきっとあるのだと思います。
それは私がインドに行って、
感じることのひとつでもあります。
私たちは昔より動物的な感覚が鈍くなっていると。
今回のコレクションには、
その失われた感覚をもう一度たぐり寄せるような気配がありました。





毛並みの良いヤクウール
焼けた肌の色をした超長綿
血の色を思わせる赤
故郷の鹿革
素材として美しいだけではなく
触れたときに
身体を少しだけ目覚めさせるものとしても
選ばれているように感じ
デザイナー髙橋さんの
「肌を空気とともにまといこむ
ような」という言葉も印象的でした。
服を着ることは
身体を覆うことだけでも
整えることだけでもなく
言葉をつける前のなにか、
空気や温度や気配ごと身に引き受けることなのかもしれません。
そう考えると、服は単なる表層ではなく
世界と自分の間にある、
もうひとつの皮膚のようにも思えてきます。
このもうひとつの皮膚という言葉はわたしが好きな鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」でも書かれています。
oiraの服にはいつも
ユーモアと生きることの静かな切実さがあります。
わたしはそこにとても人間らしさを感じていて、それがoiraをいろんな人にふれてほしいと思う一番の理由だと思います。
それはこの世界にふれ続ける心のようなもので
血が通っている服とはこういうものだと思います。
I(私)record(記録する)では
日々の出来事や
生と死の気配をそのまま記録していくようなまなざしがありました。
そして今回は、その記録をするより以前の
感じる身体そのものへと、さらに深く潜っているように思います。
知ることより先に、感じること
積み上げることより先に、手放すこと
整えることより先に、身をひらくこと
いま、わたしたちに必要なのは
何かをうまく説明することよりも
自分の感覚がどこまで生きているかを
確かめること
もちろんなにかを知ることもとても大切ですが
結局人が人であるということは
何かを感じるということなのかもしれないなと。
その感じることを失うことが
一番怖いと思うのです。
この服に袖を通すことが、
忘れていた感覚に、
もう一度触れなおすきっかけになるのかもしれません。
肌の一番近くにあるもの
だから服は、服だから愉しい
ぜひふれてみてください
oiraの紹介についての記事はこちら

